ムジナ
東京の赤坂道に街灯と人力車の時代になる前、この
これはすべて、かつてそこをムジナが
ムジナを見た最後の男は、京橋方面の年輩の商人であったが、三十年くらい前に死んだ。彼が語ったのはこんな話だ──
ある晩遅く、急ぎ足で紀伊国坂を上っていくと、堀のそばにうずくまり、ただ独り悲しげにすすり泣く女を見掛けた。身投げでもするつもりなのかと心配になって、何としても助けよう、力になって慰めてやろうと思い足を止めた。女は細身で品のある風情に見え、見事な衣装を着て、髪は良家の若い娘がするように整えられていた。「お女中」女に近寄りながら呼びかけた──「お女中、そんなにお泣きにならないで……何かお困りでしたらお話しください、もしかしたら何かのお役に立てることでもあるかもしれません、私は喜んであなたの助けとなりましょう。」(とても心優しい男であったので本心からそう言った。)しかし、女はすすり泣きをやめなかった──片方の長い袖で顔を隠したまま。「お女中」今度はなるべく穏やかに話しかけた──「どうか、どうか、お聞きください……ここは若いご婦人が夜中に来るような場所ではありません。お願いですからお泣きにならないで──どうしたらお役に立てるのか、お話しくださるだけで結構なのです。」女はゆっくりと立ちあがったが、背中を向けたまま袖に隠れて悲しげなすすり泣きを続けた。そっと肩に手を置いて懇願した──「お女中──お女中──お女中……ほんの少しの間、耳を貸してください……お女中──お女中……」すると、そのお女中は、振り向いて袖をおろすと、顔を手で
紀伊国坂を上り、目の前の何も無い暗闇をひた走りに走った。振り返る度胸などあろうはずもなく、ただひたすら走り続けて、ついに、かなり遠くの方で、
「これ、これ、」そば売りは乱暴に叫んだ。「落ち着いて、何か一大事ですかい、誰ぞに痛めつけられでもなすったかい」
「いいや──痛めつけられたんじゃない」あえぎあえぎ言葉を継ぎ足した──「ただ……ああっ──あっ、」
「──ただ、おっかない目にあったのかい」冷ややかに物売りは問いかけた。「盗賊ですかい」
「盗賊じゃない──盗賊じゃあないんだ」
「へっ、そいつが見せたのは、こんなもんじゃなかったかい」そう叫ぶとそば売りは、自分の顔をなでた──すると、顔がまるで卵のようになって……同時に灯りが消えた。